【体験談】精神疾患の母に言われた「ついてきてほしい」私が決めたこと、決められなかったこと

更新日: 2023年07月14日

中学1年生の時に親の離婚を経験した、現在23歳の南波佑香さん(仮名)は、精神疾患を抱える母親のヤングケアラーという一面も持っていました。父親の怒声と母親の自傷行為が記憶に残る幼少期、親の顔色を伺い進学を諦めた高校時代……そしてこれからのこと。「今の私からしたら、父親も母親も友だちのよう」と話す南波さんに話を聞きました。

父の暴力、母の自傷行為……暗い幼少期

――ご両親が離婚する前の生活から聞かせてください。

お父さんとお母さん、私と二人の姉の5人家族で、神奈川県で暮らしていました。詳しいことはわかりませんが、私が生まれた頃には、お母さんは既に精神疾患と合併症を患っていたのではないかと思います。私の物心がついた頃には寝たきりのような感じだったので。

――どのような症状があったのですか。

鬱です。それに今もなんですけど、少し子ども返りしてしまうというか。

――その状態で3人のお子さんを育てるのは大変でしたよね……。

真ん中の姉が病弱で大変だったせいか、私の予防接種は忘れたと言われました(笑)。赤ちゃんの頃に打たなければならない注射を、親いわく一切受けていないそうです。

お母さんは、幼い私のお世話や身の回りのことはできないので、6つ上の姉や仕事から帰ってきたお父さんがご飯を作ってくれたり。洗濯は姉妹みんなでやっていました。

お父さんは、子ども3人とお母さんを加えた4人を育てるような感じだったので、イライラするのも仕方ないかなと、子どもながらに思っていました。

――夫婦の関係は南波さんからどのように見えていましたか。

もう最悪でした。普段は喋らないんですよ。喋ると怒鳴り合い……というか、お父さんが一方的に怒るのですが。

お母さんは謝るばかりで、手首や首の周りを切ってしまう自傷行為に走り、布団が血だらけになっていました。怒られる度にどんどん病んでしまって、お母さんは自分を傷つけて……私が幼稚園の頃の話ですが、その頃が一番過激で、家の空気も重かったです。

※写真はイメージ(iStock.com/funky-data)

――お母さんが怒られるきっかけは何だったのか覚えていますか?

後から聞いた話だと、いつの間にか何かが購入されていて「お前がどこかで購入ボタンを押したんだろう!」と。お母さんは、自分が買ったかどうか全くわからないという感じです。なぜ発生しているお金なのかわからないけれど、怒られるから謝るという。

――お父さんは南波さんに対して、どのように接していたのでしょう。

大きくなってもなかなかお漏らしが終わらない子だったので、お漏らししてしまう度に殴られていましたね。父は昔、格闘技をやっていたのでめちゃくちゃ痛かったです。今はだいぶ丸くなったのですが、当時は喋りかけづらい父親でした。

三姉妹の親権は父親へ

――ご両親は何がきっかけで離婚することになったのですか。

きっかけというほど、何かはっきりしたことがあったというよりも、“その状態が続いたから”という感じですね。離婚したのは私が中学1年生の頃です。

お父さんが「お金を出すから出て行ってくれ」と、まとまったお金を渡して、お母さんが出ていく形になりました。三姉妹は両親のどちらについていくか、という話し合いがあり、お母さんは私に来てほしいと言ったのですが、やはり養うことはできないだろうと。結局みんなお父さんの方に行くことになりました。

――南波さんの気持ちとしては、どちらと暮らしたいという希望はありましたか?

どちらでも、という感じでしたね。お母さんと暮らすなら家事は私がやらなければいけないかなぁというくらいで。

――お母さんは離婚をすぐに受け入れたのでしょうか。

離婚したくないと抵抗するような話はなかったと思います。以前から離婚の雰囲気はあり、具体的な話が出てから数日後にお母さんは家を出て行きました。

※写真はイメージ(iStock.com/bee32)

――生活はどのように変わりましたか。

お母さんが出て行ってから、私たちも学区内の違う家に引っ越しました。お弁当を自分で作ったり、面倒くさいと思いながらも助け合って家事をしていました。

それから、お父さんが落ち着いたというか、怒らなくなりました。離婚という選択は合っていたのだろうなと思います。私が殴られることも減りましたし。

親の反応を伺い、進学を諦め就職

――南波さん自身は、どんな学生生活を送りましたか?

すごくネガティブで暗かったです。登校したら机でうつ伏せで寝て、仲のいい少人数の友だちとつるむ以外は誰とも話さなかったです。

部活は美術部で、途中から転部してサッカー部に所属していました。絵を描くことは今でも好きですが、サッカーはチームプレーよりも、一人でボールを蹴ることが好きだと気付いて中学で辞めてしまいましたけれど(笑)。でも中学生の頃は、ひたすらボールを蹴っていました。

高校では、また美術部に戻って絵を描いていました。

※写真はイメージ(iStock.com/mediaphotos)

――進路についてはどう考えていましたか。

行きたい美術専門学校があったのですが、卒業までの学費が400万円くらい。家庭にお金はなかったし、お父さんも含めて姉妹も進学をしたことがないんです。進学に対する不安があったのだと思いますが、お父さんには「手続きの仕方がわからないし、働いてもらった方が安心」というようなことを言われました。

――お父さんとはそれ以上、進学について話すことはなかったのですか。

話しましたが、あまり反応が良くなくて……。私は親の反応を伺いながらずっと生きてきたので、親の言うことを聞くことが当たり前になっていたんです。私もそこまで強い意思を持っていなかったので進学は辞めようと。

奨学金を借りる手もあったのかもしれませんが、奨学金って借金じゃないですか。先生に進路相談したら「早々に借金を背負わせたくない」ということで、デザイン系の会社を紹介してもらって、そこに就職することにしました。

デザインといっても自分でデザインできるわけではなく、会社が合わず2年半程で退職。1年間引きこもって、東京に出てきた今は一人暮らしをしています。

自分の力で画家への道を切り拓く

――離婚後、お母さんとの交流はありましたか。

私は頻繁に会っています。私と真ん中のお姉ちゃんで一緒に会っていたのですが、次第にお姉ちゃんの足が遠のいて私だけが会っていました。一番上のお姉ちゃんとは今も絶縁状態です。たまに「あの人どうだった?」と聞かれてお母さんの近況を話したり、お母さんにはお姉ちゃんの子どもの写真を見せたりしています。

お父さんとお母さんの交流はありません。お母さんは障害者手帳を持っていて行政の支援を受けていたので、養育費は払えませんでした。お金のことは全然わからなかったですけれど、今思うとお父さんはすごいなと。

――南波さんだけがお母さんと会い続ける理由とは何でしょう。

お母さんには一緒に暮らしている人がいるのですが、恋人のような関係なので、友だちのように気軽に話せる喋り相手がいないんですよね。お母さんにもつらいことがあるだろうと思い、話を聞きに行っています。会いに行くと、やっぱり嬉しそうです。

――お父さんは、南波さんがお母さんに会うことをどう受け止めているのですかね。

「今日お母さんに会ってくるね」と言っても「行ってらっしゃい」と、特に気にしている様子はありません。

――南波さんが仲介者として、家族の関係をつないでいるように感じます。

そういう部分はあるかもしれませんね。お父さんは、タバコをやめるほど孫を溺愛して、少年のように趣味の模型やピアノに熱中しています。お母さんも、別れてから怒られることがなくなったので病気の症状が軽くなりました。

今の私からしたら、お父さんもお母さんも、割と気の合う友だちです(笑)。前のような暗い生活に戻らず、今のハッピーな感じが続いたらいいなと思います。

――両親が離婚したことによって、ご自身にどんな影響があったと思いますか?

自責思考になったことですかね。責任感が強くなったという見方もできるかもしれませんが、あまり他人に期待しなくなったというか。誰かに相談することがあまり得意ではなかったので、自分の中で完結するようにしています。

だから、自分次第だなと思います。やっぱり他人は変わらないし、育った環境は変えられない。でも、自分は変えられると思うので。

進学を諦めて就職したことに対して少し後悔をしているので、今は画家になりたいという夢を実現させたいです。将来的に海外で活動したいので、英語の勉強も始めました。

飲食店で働きながら、ギャラリースタッフとしても働いていて、友だちと3人で一緒に住む予定もあり、今が一番いいですね。

※写真はイメージ(iStock.com/metamorworks)

ー心の病を持つ母親が親権を持つことー

明るくてポジティブ。初めて会った時に感じた南波さんの印象は、「自分次第」という彼女が後天的に身につけたものでした。また、彼女の発する「仕方がない」は、諦めのニュアンスよりも、“誰のせいにすることもなく事実を事実として受け入れる言葉”として使われていたように思います。

人体のパーツを描くのが好きだという南波さんに、中学生の頃の絵を見せてもらいました。鉛筆で緻密に描かれた線の一本一本を、当時の南波さんはどのような思いで描いていたのでしょう。

生涯を通じて5人に1人が心の病気にかかるともいわれている今、結婚し、子どもを産んでから心の病気を発症するケースは珍しいことではありません。南波さんたち姉妹は父親と暮らすことになりましたが、精神疾患を抱える母親と暮らすという選択肢もあり得たのでしょうか。

山下環法律事務所の山下環弁護士に聞きました。

【山下環弁護士監修】精神病の「回復の見込み」を証明するには

法廷離婚事由の「強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき(4号)」の判断は医学的判断そのものではないとされていますが、証明方法としては、医師の診断書やカルテの提出が考えられます。

また、4号の具体的な状況として、夫婦の同居・家事・育児などを全く果たすことが出来ないような場合をいうとされていますので、そのような状況を立証する必要があると解されます。

但し、上記立証が可能な場合であっても、同条2項との関係で、離婚を求める側が、病者に対し、今後の療養・生活について、できる限りの具体的な方途を講じるべきとされているため、過去の裁判例をみるに、例えば、国や地方自治体の費用による入院加療が行われていることや、療養・生活費に見合う財産分与の決定がなされて、それが履行される見通しがあること、近親者等による病者の引受態勢が出来ていることなどの立証も必要になると思われます。

また、うつ病などの精神疾患がある場合でも、精神疾患の原因やこれまでの病状の経過、今後の監護態勢等に鑑み、日常生活における子どもの養育に支障が生じないと判断されれば、親権者となることは可能です。

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弁護士: 東京弁護士会

山下 環

山下環法律事務所

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初回無料

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