【取材/前編】「父に勝つため筋トレに励んだ」ペアチル代表が語る壮絶な過去と今ある幸せ

更新日: 2023年10月10日

ひとり親同士で気軽に雑談や相談ができるトークアプリ「ペアチル」。ペアチルの生みの親、一般社団法人ペアチル代表の南翔伍さんに開発までの歩みを辿ります。前編では南さんの子ども時代、そしてご家族への今の想いを聞かせてもらいました。

全身打撲、骨折……小学生相手に「自分で稼げ」

――ひとり親の方限定のトークアプリ「ペアチル」を開発するに至った、南さんのこれまでの歩みをお聞かせください。まず、幼少期はどのように過ごしていましたか。

母は、僕が2歳と16歳の時に同じ父と離婚しています。

一度目の離婚理由は借金で、僕が小1の頃「兄妹が欲しい」と言い、母と祖母が会議をした結果、同じ種がいいだろうということで再婚し、妹が産まれたと聞いています。

記憶がある時には既に、僕と母は父から暴言や暴力を受ける生活を送っていました。

全身打撲や骨折が何度かあり、今でも母はちょっとしたケガが大ケガになってしまうほど体がボロボロ。それくらい酷かったので、どうにかしなければ僕と母は死ぬと思っていました。

※写真はイメージ(iStock.com/PrathanChorruangsak)

――暴言や暴力の原因は何だったのでしょう。

父は8人兄妹の末っ子で、兄が営む鉄筋屋さんで働いていました。兄への気遣い、関係者とのもめ事などのストレスで酒を飲むと暴力的になっていたんじゃないかと思います。

でも、不思議なことに僕より6つ下の妹への暴力は一切なくて。男という生き物はそういうものなのかどうかは知らないですけど、本当にデレデレでしたね。

それから父は、小学校の費用など僕に関わるお金は自分で稼げという考え方で、「俺が子どもの頃は新聞や牛乳を配達して稼いでいた」の一点張り。意味がわからないですよね(笑)。

父には普通の生活を送れるくらいの稼ぎはあったと思うのですが、ギャンブルに消えていました。

母は昼夜働きづめで、そのおかげで何とか学校生活を送ることができたんです。小さい頃は、母が働いていたスナックでよく生活していました。

世帯収入を見れば相対的貧困世帯には該当しませんが、その分、制度が使えない。僕や母の生活は、実態としては貧困世帯と変わらなかったと思います。

「“当たり前”を当たり前にできない家なんだ」というのは、小学校低学年の頃から感じていたことです。

腕相撲で父に勝利して離婚

――お父様に対して何も言えない状況だったのでしょうか。

両親の関係はもう最悪でした。僕や母が少しでも親父の気に障ることをしてしまったら、本当にボコボコにされるので怯える日々の連続です。

だんだん僕も家に帰りたくなくなって、小4くらいになるともう本当に帰らず、ずっと夜の街にいました。

――どこで過ごしていたのですか。

僕、三重県出身なんですけど、海辺に行くと火が焚かれる場所があるんですよ。そこで高学年や中高生の同じようなやつらと雑魚寝で。

※写真はイメージ(iStock.com/AntonioSolano)

中学生の頃は、窃盗など、今となってはお天道様に顔向けできないこともしてきました。放火で仲間が一人捕まり、関わった僕らも翌日出頭して謝りに行きました。

――ご両親はどんな反応でしたか。

親父には、本当に殺される勢いで怒られましたが、母はその姿を見ていたので「やってしまったものは仕方がないから、とりあえず謝りに行こう」と。

そんな母の言葉の一つひとつが、僕にとって救いでした。

――お母さまの存在は大きかったのですね。そうした生活の中で、どのように2度目の離婚をすることになったのですか?

小学校高学年の頃、母に「離婚しないの?」と聞いたことがありますが、金銭的な不安があり離婚できないと。それからリアルに、離婚を切り出したら殺されると思ってたんですよ。

そんな母が父と一緒にいる意味はないと感じながらも、「確かに金は必要だよな……」と僕も思っていたので、母に対してそこまで強く言えず。

しかし、中学生の頃から徐々に力がついてくると、父親に対する対抗心も比例するように増えてきました。母を守り、物理的に父に勝てるようになろうと思い、筋トレをめちゃくちゃ頑張った。

そしてある日、父に腕相撲を申し込んで勝ったんです。

※写真はイメージ(iStock.com/CasarsaGuru)

その瞬間「いける!」と思って、一週間もしないうちに父が働きに出ている隙を見計らって、僕と母と妹の3人で家を出ました。

――家を出た後に住む場所は確保していたのでしょうか。

はい、賃貸に住めるように母が段取りをしていました。学校にも事前に連絡をしていたようです。

――3人が家を出たことを知ったお父さまの反応は?

何度も電話がかかってきました。当然、母には父と対峙させるわけにいかなかったので、僕が父と直接会い、事情を説明しました。その時も殴られたのですが、親父も血の通った人間だった……最後は離婚届に判を押してくれたんです。

※写真はイメージ(iStock.com/gyro)

離れていても、一緒にいても、対話を諦めないでほしい

――大人になった今、お父様に対してどのような思いがありますか。

僕や母にしてきたことを許せているわけではないのですが、父も一人の人間だったのだなと思えるようになってきました。人間なので弱くなる時はあるでしょう。その表現方法がおかしかったり、歪んだ愛情表現だったりしたという……。

されど、父親なんですよね。この世に血の繋がった父親は一人しかいないのだなと。

後から知って驚いたのですが、不定期で金額はバラバラながらも、僕と妹が成人するまで毎月養育費を払っていたようです。仕事上、数々の養育費の不払い問題を見てきたので、払いきったのは立派だと思いました。

大学3年生の頃、僕の方から飲みに行こうと誘い、そこからは割と腹を割って話せるようになり、父との関係も良くなっていきました。

※写真はイメージ(iStock.com/Wasan Tita)

――親の離婚を経験したからこそ、今、離婚を考えている方にお伝えできることがあれば聞かせてください。

両親どちらにも言えることですが、子どもとの対話を諦めてほしくないですね。

別居親である父に対していうと、僕から飲みに誘うのは怖かったし、とても勇気がいることでした。でも、結果的に誘ってみて良かったと思います。

僕からすると、父親はあの父親しかいないんです。父と対話することで得た学びがあり、腹落ちして受け入れられたこともあります。対話を諦めるから愛情が歪み、暴力などに向かってしまう。

だからもしも今、子どもとの対話を諦めている人がいれば、諦めないでほしいですし、できればその機会を親の方から作ってもらえるといいのかなと思います。

同居親に対しても、子どもとたくさん喋ってほしいですね。子どもは、親に対して感謝の気持ちを持っていても照れ隠しで伝えづらかったり、親のお財布事情が気になっていても聞きづらかったり、進路に対しての不安があっても言えなかったりするものです。

わざとらしくても意図的でも構わないので、子どもといろいろな話をしてほしいです。

「お金のない幸せ」を知る、最高に仲のいい家族

――親の離婚がご自身に与えた影響について教えてください。

マイナスに働いたことはあまりなかったと思います。あえて言うなら、一家の大黒柱にならなければというプレッシャーを勝手に感じていたことでしょうか。

そのせいか、今でも我慢する癖が抜けていないのかもしれません。自分自身に対して、もう少し自由奔放にやればいいのにと思いますけどね。

これまでしんどいことだらけでしたが、親友や周囲の人々のおかげで自分の運命を恨むことなく受け入れ、そのうえで経験を活かす方法を見出す努力を続けることができました。逆境に強くなったのかもしれないです。

もう一つ、お金のない幸せを知れたことはすごく大きいです。

母と妹と僕の3人の生活は月収十数万円でギリギリの生活でしたが、3人で食べる飯がうまくて。あの時間があったことは、僕の中で結構な転換点でした。

それが僕の土台にあるから、今いろいろな仕事や活動ができているのは余暇活動なんですよ。大事な人と飯を食って語れる時間があれば、僕の人生はもうオーケーだって思える。

これまでさまざまなことがありましたが、家族3人、最高に仲がいいですね。

 

【取材/後編】母のような「ひとり親の孤立を解消したい」さらに先を見据えたペアチルの挑戦

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